2009年07月04日

中国史における南北朝時代

中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)とは、北魏が華北を統一した439年からはじまり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。

この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉と東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に、文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
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また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱をおさめ、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして、再び華北を統一する。その後581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝をふつう北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。

2009年06月15日

伝統的には一定期間に一本ずつ選び出した泡盛で

伝統的には、一定期間に一本ずつ、選び出した泡盛で満たした南蛮甕を貯蔵し(順に親酒、二番手、三番手……と呼ばれる)、ある程度年数が経ったところで、最も古い酒である親酒を掘り出し、きき酒を行った上で慶事等の際飲用に供される。『親酒』を飲んだり、甕からしみこんで減った分は、その分だけ『親酒』に二番手を、二番手に三番手を…というように順次新しいものを古いものへ補充し、最後に最高の番手の甕に新しい酒を補充する。この方法を仕次ぎという。最低でも、甕を3個用意し、三番手まで作るのが望ましいとされる。 なお、シェリー酒にも同様の方法があり、これをソレラシステムという。

多くの酒造所で、様々な方法で貯蔵されているが、現在、効率性の観点から多く採用されている貯蔵方法はステンレスタンク貯蔵である。泡盛は瓶詰めされたものを寝かせても熟成がすすみ古酒化するとされているが、瓶、ステンレスタンク、ホーロータンク、甕、樽と異なる容器で熟成された古酒は風味が異なる。前に挙げた方法はアルコールの減少が少なく、泡盛本来のクリアな風味となり、後者はアルコールが揮発し丸くなり、容器から溶出した成分のため複雑な風味となるといわれている。

瓶内でも熟成されると考えられているため、家庭でも新酒をそのまま寝かせることにより古酒にすることも可能である。かつては本州に出荷した泡盛の売れ残りが送り返されることがあり、製造業者は古酒になっているため喜んで引き取っていたが、本州の業者にも熟成のことが知れ渡ると売れ残りが送り返されることがなくなったという。
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古酒ならではの問題 [編集]
古酒は、利益を出すまでに年月がかかるため、企業にとってはハイリスク商品である。また、泡盛業界は零細事業所が多いため信用力が低く、必ずしも思った利益が出るとは限らない長期事業に銀行が貸し渋りする傾向がある。そのため、損益確定が早い一般酒に力を入れる動きが泡盛業界には多い。

このため、1976年より沖縄県酒造協同組合が各酒造場の生産する泡盛の原酒を仕入れ、ブレンドののち長期貯蔵により古酒として出荷する事業を行っている。同組合には沖縄県内全46社が参加している。

一方で、古酒ビジネスをローリスクにする方法も存在する。沖縄県内産以外であっても、材料・製法を踏襲すれば「泡盛」や「クース」と表示出来ることを利用し、長期保存が必要な古酒では、モンゴルなどの地価が極端に安い外国で倉庫費を削減して製造する動きも始まっている。また、近年の法整備により貯蔵中の泡盛を担保とする融資制度の導入も計画されている。

なお、一般の泡盛の不良在庫(デッドストック)の分を「古酒」として売ることも出来る。この場合、商品化には味の調整が必要であり、ブレンド古酒となる。

2009年05月29日

アカデメイア(Akademeia)は

紀元前387年古代ギリシアのアテナイにプラトンが創設し、古代世界最大の名声を誇った学校の一つである。名は学校の場所であるアテナイ郊外のアカデモスの聖林にちなむ。幾何学と天文学を重視した授業を行い(ただし、それらは哲学のための予備学のような扱いだった)、プラトンの死後、学頭の地位は甥スペウシッポスが継いだ。時期によって学説に相違があり何期かに分かれる。スペウシッポスの時期には数学偏重の傾向が見られた。末期は懐疑論が主流となり、アカデメイア派は懐疑論者と同義に使われた。 アカデメイアに関わった著名な哲学者には、アルケシラオスやプロクロス、カルネアデス(第3代学頭)がいる。 東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の非キリスト教的学校の閉鎖政策によって、アカデメイアは529年にその歴史を閉じた。
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アカデメイアが学校として有名だったことから、ヨーロッパではネオプラトニズムの隆盛と相まり、高度な研究ないし教育機関をこれにちなんでアカデミー、アカデミカなどと名付けることが行われた。ルネサンス期のフィレンツェにおけるプラトン・アカデミー(Academica Platonica)はメディチ家と人文主義者の私的サークルであったが「アカデミー」という言葉が用いられる端緒となり、制度化されたものとしてはフランスのルイ13世治下におけるフランス王立アカデミーなどが著名である。ちなみにアカデメイアとは「快楽」の 意味である。

2009年04月26日

カール大帝の戴冠

800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇レオ3世より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。これはカールの王国が、理念的にも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から自立し、独自性を得たことを意味する象徴的事件だった。

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カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割統治するよう遺言した。 だが、814年にカールが72歳で死去した時、生存していた息子は敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)だけだったため、カールの王国は彼にそのまま継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。だが、823年に末子カール(後のシャルル2世)が誕生すると、ルートヴィヒ1世は彼にも領土を与えようと画策、他の3人の息子からの反発を招き、一時廃位されるなど、混乱を招いた。

ルートヴィヒが840年に死亡した後、生存していた3人の息子のうち長子ロタール1世が権力を掌握して皇帝となったものの、2人の弟ルートヴィヒとカールは兄に反旗を翻して、841年のフォントノワの戦いで軍事的勝利を得た。その結果2年後の843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東、中、西の3つに分割された。ほんの一時期、カール3世(肥満王)が統一したこともあるが、彼は度重なる外敵の侵入に対処できず、廃位され、この統一国家はごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。

うち、西フランク王国はのちのフランスに相当し、東フランク王国は後の神聖ローマ帝国からドイツにつながっていく。一方、ロタールが得た中フランク王国は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国の2つの首都(ローマとエクス・ラ・シャペル)を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土(「ロタールの王国」と言う意味でロタリンギアと呼ばれ、ロートリンゲン(独)、ロレーヌ(仏)の語源となった)は東西フランク王国によって分割吸収された(870年のメルセン条約)。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝にイタリア王位として兼任される様になった。

西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年にカロリング朝の国王が途絶えた。それぞれの断絶の直接の理由は王位を継承し得るカロリング家系の消滅であるが、傍系の王族は残っており、諸侯の台頭と相対的に低下した王権の衰退が考えられている。

2009年04月09日

軍事分野における研究

1940年代からOSS(CIAの前身)では敵のスパイや捕虜から機密事項を吐き出させることのできる自白剤の研究をしていた。アルコールやバルビツール、カフェイン、コカイン、マリファナ、メスカリン、ヘロイン等、様々な薬品を研究したが有用なものを見つけ出すことはできなかった。

1950年代に入り、ついにCIAはまだ当時あまり知られていなかったLSDを入手した。そして行われた最初の模擬尋問の実験は非常な好結果(被験者は機密の詳細を吐いてしまった上、トリップ終了後には機密を洩らしてしまったことを覚えていなかった)であったため、以降LSDは研究の中心となった[35]。

しかし、研究はすぐに暗礁に乗り上げてしまった。LSD投与が引き起こす結果を予測するのは非常に難しく、ある時は無際限に情報を吐き出すが、LSDが引き起こす様々な体験をした被験者の内、猜疑心をつのらせたり、壮大な幻想を経験して尋問者に無限の力で対抗できると思い込んでしまった被験者からは何も聞き出すことができなかった。そして何よりも致命的だったのは、著しい不安や現実感の喪失により必ずしも正確な情報を引き出せないことであった。そのため尋問の際に自己投与することで正確な情報を引き出せないようにする「反自白剤」としての研究も始まることになった。

そして1953年4月13日から、当時のCIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスの命により、当時の冷戦体制において、攻撃面での可能性を研究することにより、敵側の理論的潜在力を把握するとともに先制攻撃的防御体制を作り上るため、精神操作計画、MKウルトラ作戦が始動された[36]。

MKウルトラ作戦はCIAの中のTSSによって運営された[36]。この計画の様々な研究の中の、薬物による精神操作の研究として、当初はスタッフ内でLSD投与実験を行っていたが、LSDを投与されたことを前もって知ってしまっては本当に必要としている実験結果が得られないと考え、やがて他の部局の職員を対象とした抜き打ち投与実験を開始した。この実験が行われていく中で、投与実験の数週間後に迫害を受けていると妄想し自殺するフランク・オルスン博士のような犠牲者がでた[37]。

そして研究の最終段階としてジョージ・ハンター・ホワイトにより、サンフランシスコとニューヨークにおいて、娼婦が何も知らない一般人を対象にLSDを投与するという実験が開始された。しかし1963年、CIA監察官ジョン・イアマンはMKウルトラ作戦の責任者リチャード・ヘルムスが当時のCIA長官ジョン・アレクサンダー・マコーンに計画の全容を知らせていなかったとして責任を追及、ホワイトが1966年に麻薬局を退めたためは実験は中止されたと考えられる[37]。

陸上戦闘における利用の研究
冷戦期、対立する両大国が核兵器を持ってしまったことで核戦争の危機が生まれてしまった。その状況下でLSDは、軍用機で敵領土に侵入して一帯に散布するか、都市の水道に注入すれば敵の抵抗力を奪い、死傷者をほとんど出さないうえに都市の経済活動にもほとんど影響を与えない、とアメリカ陸軍に限定的局地戦闘の新たな方法として着目された[38]。1959年5月、ウィリアム・クリーシー少尉は記者会見で「化学薬品により一時的に発狂させられるのと焼夷弾により生きたまま焼き殺されるのとどちらを選ぶのか」と精神操作化学兵器の開発に理解を求めている[38]。

1950年代後半、ノースカロライナ州フォートブラッグで行われた実験では兵士はLSDを投与された状態で様々な実戦活動を行ったが、兵士は完全な活動不能から戦闘能力の著しい低下に至り、LSDの威力を見せ付ける結果となった[38]。

しかし、LSDは噴霧状のものを吸い込むよりも体内に注入するほうがずっと効果的であり、大規模な戦闘でLSDを使用することができなかった。そのため、CIAのように尋問の道具としての研究が始まったが、1960年代前半にはLSD実験は行われなくなった[38]。

その他の分野における研究 [編集]
LSDは、動物への影響を調べるために動物に大量に投与する実験や創造性に与える影響を調べるために画家に服用させて絵を描かせる実験、魔界との交信実験[39]等、医療分野や軍事分野以外でも様々な分野において研究された。

その中でもジョン・カニングハム・リリーによる、LSDを用いたイルカやクジラとの異種間コミュニケーション実験やアイソレーションタンクによる身体と精神の分離実験[40]、それらのLSD実験によって得られた「生命体は複雑なコンピュータであり、LSDは再プログラミング物質として役に立つ」との説が特に有名である
酩酊薬としてのLSD [編集]
様々な分野で行われていたLSDの研究の多くは1950年代中にはピークをむかえ、1960年代に入ると代わって一般大衆の間に広がった。

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2009年03月25日

ローゼンメイデン

『ローゼンメイデン』(Rozen Maiden)は、PEACH-PITによる漫画、及びそれを原作とするノーマッド制作の日本のアニメ作品。

原作漫画は『Rozen Maiden』のタイトルでコミックバーズ(幻冬舎コミックス)にて2002年9月号から2007年7月号まで連載(途中休載を挟む)
コンセプトは「アンティークドールの戦い」。 少女漫画の様な作風や美しいドールの衣装から、女性からの人気も高い。画風に関しても、虹彩の細かな書き込みや背景に花を描いたりなど、従来の少女漫画に近い。メディアなどでローゼンメイデンの衣装と作風はゴシックロリータだと形容されることがあるが[1]作者は作風について、厳密にはゴスロリではないと語っている。また、ドールの衣装についても「ローゼンメイデンの中でゴシックロリータと辛うじて言えるのは水銀燈だけ」と言っている。
ダーラン サフィ サウンド サイド バング レウイ ルンペン レバノン ブラック シード バレー ソフトダ ロッシュ メロン シャーリ おおばなさ クリーン きゅうせき ケマン カイドウ くしびき ハーフ フェア ビリティ ユーエ モッツ ルヒル ヒューズ ライダー 幸福 リンクス マチン ユッケ スリラー YELLOW テレカ ゲート セッション 風の足跡 オンシ 艶姿 検索ジム バースト テレフ ハック プライ ダバード ワクシニア オーバ モンテ

系統的には人造人間譚と言えるべき物でもあり、アンドロイド登場作品に共通するテーマを内包している。また、「アリスを造る」ではなく、アンドロイドである薔薇乙女自身が、当初から強い自己意識と独立心を持ち、自らの意思で「究極の少女であるアリスを目指す」という女性主観的な要素が強調されている。

名前の由来は、作者によれば「完全に響きから入りました」とのことである[2]。ドイツ語の「Rosen」という単語が出てきたものの、どうしても英語の「Maiden」と合わせたかったらしく、「ローゼンさんという名前の人の作った乙女」ということで「Rozen Maiden」となった。ちなみになぜzになったかは不明だという。


突然の連載終了とその後の動き [編集]
「コミックバーズ」連載中、原作者PEACH-PITの公式サイトに当作品のコンテンツが存在していたが、リンク集における「雑誌」のコーナーで連載している雑誌が列挙される中、「コミックバーズ」誌へのリンクのみが消滅。このため、読者の間では「原作者側と出版元の幻冬舎コミックス側および「コミックバーズ」編集部との間に何らかのトラブルが生じた」という噂が連載終了前から飛び交っていた[3]。

2007年4月28日に「コミックバーズ」の公式サイトで2007年5月30日発売の7月号をもって連載終了と発表され、最終回が掲載された。

2007年6月24日のPEACH-PITの公式ブログにて千道万里が、今までローゼンメイデンに関するコメントを差し控え、ファンに不安と心配を掛けていた事の謝罪と今までの応援を感謝するコメントが発表された。なお、今後については「(ファンに対しては)何らかの形で必ず恩返しする」と記載したのみであった。

これ以降、ローゼンメイデンにまつわる動きは見られなかったが、2008年3月発売の週刊ヤングジャンプ16号にて『少女のつくり方 How to make a girl』と題したローゼンメイデンの書き下ろしフルカラー漫画8ページを袋綴じ付録として掲載、また17号に於いて『ローゼンメイデン』の新連載が告知され、20号より月一回のペースで連載中である。そして、2008年4月30日にはヤングジャンプ・コミックスから『Rozen Maiden 新装版』(定価743円+税)が発行されており、毎月1巻ずつ全7巻が発売された。なお、週刊ヤングジャンプ誌上では『ローゼンメイデン』とカナ標記され、『Rozen Maiden』とは区別されている。

2009年03月10日

初代サン・ピエトロ大聖堂

初代サン・ピエトロ大聖堂は、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世の指示で建設されたバシリカ式教会堂である。アウレリアヌス城壁の外、ヴァティカヌス丘陵に2世紀になって整備された異教徒用墓地区域にある、聖ペテロの埋葬地を覆うように計画された[2]。歴史学的には、ペテロがローマで殉教したとする確実な資料が存在していないので、建設地がほんとうにペテロの墓地だったかどうかについては古くから反論がある。ローマ教皇庁が1950年に行った声明に先立つ発掘では、大聖堂地下において墓碑と遺骨が発見されているが、これがペテロのものであるという確証はない。また、しばしばペテロ殉教の地とされることもあるが、15世紀には、ペテロが逆さ十字に架けられたのは「黄金のヤニクルム」、つまりジャニコロの丘のモントリオ(サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のある場所)であるとされ、現在は、そこにドナト・ブラマンテの設計したテンピエットが建設されている[3]。

最初の大聖堂の形態は、313年頃に建設されたバシリカ・サルウァトロス、すなわち救世主大聖堂(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)を原型とするもので、324年以前(恐らく319年から322年の間)に着工され、身廊は360年頃、アトリウムは390年頃、内部装飾は5世紀中期までには完成した。一列22本の列柱によって構成された5廊式バシリカは、アプスを含めた最大長さ119m、身廊長さ90m、幅64mに達する巨大なもので、当時すでにヨーロッパ最大の教会堂であった[4]。ただし、この初代サン・ピエトロ大聖堂は主教座教会堂ではなく、アプス中央にあるペトロの墓所を聖地として多くの巡礼者を集めた殉教者記念教会堂、および巡礼教会堂であり、古代・中世の教皇の住まいは「首都と世界の本山にして首席教会堂」と称された救世主大聖堂に隣接するラテラノ宮殿であった。896年に、救世主大聖堂は聖ヨハネに献堂され、「首席教会堂」の尊称はサン・ピエトロ大聖堂に遷されることになった。

現在、この創建当時のサン・ピエトロ大聖堂は失われてしまったが、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、旧サン・ピエトロ大聖堂とファサードや平面がよく似ており、当時の教会堂を偲ぶのに適している。
メイン フェムト ブレンダー オーダ ジャッキ プロデ ハンド ヨーグルト ひょう リゾット しゅうばつ メーター ダンク デマンド サイトゲ バオアン アコウ カーレ アオイル カーネル モルヒ スター メトロ アシカ センチュリー カルーセル サラダ キャメ バック レイヤー 笑い話 風の子 リットル オジギソ りゅうら 宝石箱 ダンス ウンディー リベット アウテ ビー ジャケブル イバナ バタフラ いもがゆ トラックク レース バズーカ コリドー ブレーク

ルネサンス期
最初のバシリカ式教会堂は、15世紀中頃には老朽化のため倒壊のおそれもあると指摘され、教皇ニコラウス5世は応急措置として修復工事を行った。

現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年の秋頃に教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年4月1日に起工式典、そして4月18日には基礎石の設置式典が行われている。ただし、これらの作業に伴う改築決定の勅令や、古い聖堂を壊す契約書といった公式書簡は全く残されていない。このためユリウス2世とブラマンテは、まだ使用に耐えうる旧聖堂破壊の公式な決定をあえて避けたとも考えられている[5]。ただし、ユリウス2世は各地に宛てた書簡の端々で、旧バシリカが倒壊寸前であること、状況を打開するには思い切った行動が必要であることを説明している。

ブラマンテの計画案は、現在、フィレンツェのウフィッツィ美術館に納められているが、彼がこの大聖堂について決定した事項について知られているのはこの平面プランと、基礎石の下に埋め込まれ、「ペテロの神殿の再生」の文字と立面を刻印したカラドッソ作の記念メダルをおいてほかにない。オノフリウス・パンヴィニウスとセバスティアーノ・セルリオが、木造模型ですら未完だったと述べていることから、これ以上のことは、恐らく何も決まってはいなかったと推察されている。1506年の式典に際して、主ドームを支える柱の位置が決定されたが、当初のプランではドームを支えるには全く強度が足りなかったため、ブラマンテが存命中にも柱は増強され、のちにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネによって、さらにミケランジェロによって柱は太くされた。この事実によって推察されるのは、工事全体の規模が、当時の芸術家や職人の把握できる限界を越えていたということである。それでも、1510年1月16日にドームを支持する四つのアーチが完成し、1512年には内陣部分の構造が完成した。ブラマンテが死去する少し前の1513年12月1日には、 フラ・ジョコンドが補佐建築家に任命され、1514年1月にはジュリアーノ・ダ・サンガッロが、そして1514年4月1日からはラファエロ・サンティが補佐建築家に指名されている。

1514年にブラマンテが死ぬと、大聖堂の主任建築家はラファエロとなり、1516年11月22日に、足場や仮枠の担当建築家となっていたアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネが助手として指名された。ラファエロによって、ブラマンテの集中式プランは長大な身廊をもったラテン十字プラン(バシリカ式)に変更されたことが知られている。ラファエロとアントニオ・ダ・サンガッロの対立によって、この工事はほとんど進展しなかったが、計画変更は人員を収容するためという実用的要求に対応するための必要な措置であり、ラファエロの死後(1520年4月6日以後)、アントニオ・ダ・サンガッロと、協力者となったバルダッサーレ・ペルッツィによって元の集中式に戻されるが、玄関を間延びさせたような妥協案を提示せざるを得なかった。途中ローマ略奪(1527年)による混乱もあって建設は中断し、オランダのマルテル・ファン・ヘームスケンクが1532年から1535年頃に画いたスケッチによると、主ドームを支える柱と、それに架けられた格間ヴォールト以外の主要構造部分はほとんど工事が進んでいないのがわかる。

ペルッツィが1536年に死去すると、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネによって、再びラテン十字を基本とするプランが決められ、1546年には、ラファエロ案に基づく新たなプランと模型が提示された。この模型は、ローマのヴァティカーノ美術館に所蔵されているが、ミケランジェロ・ブオナローティによって「牛の放牧場」と揶揄された。サンガッロは当時傑出した芸術家の一人であり、決して大聖堂の主任建築家としての技量が劣っていたというわけではない。このエピソードは、その計画の壮大さと、ひとりミケランジェロのみが、サン・ピエトロの規模に追従することができたということを物語っている。サンガッロの死後、大聖堂の主任建築家にはジュリオ・ロマーノが選出されたが、その数週間後にロマーノも死に、1547年1月には、自動的にミケランジェロが就任することになった。

ミケランジェロが主任建築家に任命されたとき、彼はすでにかなりの高齢(72歳)であったが、超人的な能力でこの計画を押し進め、根本的な解決案を作成した。彼はまず、ラテン十字のプランをブラマンテの計画した集中式プランに改編し、主ドームを支える柱の肉厚を増すとともに、サンガッロの行った工事を破壊してまで建物の輪郭を縮小した。こうして彼はドームの横加重を外壁に伝えるとともに、工事の規模自体を縮小してコストを切り詰め、造営工事の進捗を促したのである。造営工事は迅速に進められることになり、ミケランジェロの没年である1564年に、工事はドーム下部構造のドラムにまで到達した。以後の工事はジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラとピッロ・リゴーリオに引き継がれたが、ドーム部分はドメニコ・フォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタが担当した。今日残っているミケランジェロのプランでは、ドームは完全な半球であったが、工事を引き継いだフォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタは、静止力学的な解法から尖頭型ドームを採用した。これをミケランジェロが承認したか否かについては分かっていない。ともかく、ドームは1593年に完成した。

2009年02月22日

軍荼利明王

軍荼利明王(ぐんだりみょうおう、または軍荼利夜叉明王(ぐんだりやしゃみょうおう)とも呼ばれる)は密教において宝生如来の教輪転身とされ、様々な障碍を除くとされ、五大明王の一尊としては南方に配される。
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胎蔵界曼荼羅においては、軍荼利明王として、金剛界曼荼羅においては、甘露軍荼利菩薩、金剛軍荼利菩薩、蓮華軍荼利菩薩がいる。これを三部軍荼利と呼ぶが、軍荼利明王に該当するのは甘露軍荼利菩薩、サンスクリットでいうアムリタ・クンダリンである。アムリタとは、不死の霊薬のこと、クンダリンは水瓶、あるいは、とぐろを巻いた蛇のこと。

軍荼利明王は、疫病をもたらす毘那夜迦天(インドのガネーシャ)を調伏すると密教では解釈されている。

チベットでは十忿怒尊のヴィグナーンタカとなり、象頭神(ガネーシャ)を踏む。

軍荼利明王の起源と成立
軍荼利は梵語クンダリニー(kundalini)に由来し、クンダリニーは体内のチャクラを流れるエネルギー(体内で覚醒したプラーナ)とヨーガでは解釈されている。クンダリニー・ヨーガは特にインドの後期密教ではタントラやヒンドゥー教のシャクティ(性力)信仰から影響を受けて盛んだった。クンダリニーの語源は、コイル、螺旋、環、巻き毛などを意味するサンスクリット語のクンダラ(kundala)という名詞から派生したクンダリヌ(kundalin)螺旋を有するものの女性形主格である。このクンダリニーが神格化されて密教に取り入れられたと解釈されるが、定説は無い。

以下は、軍荼利明王とクンダリニー・ヨーガとの関係を示唆している。

クンダリニーは脊椎で休眠しているとされ、ヨーガで覚醒すると脊椎の尾部から頭部に向かって上昇し、これが体内で蛇が頭を持ち上げる感覚を体験することもある。それゆえに蛇はクンダリニーの象徴として表現される。軍荼利明王の体には蛇が巻き付いている。
クンダリニーの上昇に伴い、眉間辺りに位置するアジナー・ チャクラが第三の眼になる体験をすることもある。軍荼利明王の顔には第三の眼がある。
クンダリニーの覚醒によって、甘い蜜が喉元に下りてくる味覚を体験することがある。ヨーガではアムルタ(甘露)と表現する。
軍茶利明王の成立は明王の中では古いようで、不動使者とともに金剛甘露軍茶利菩薩が7世紀には仏典の陀羅尼集経(阿地瞿多訳)に登場している。日本に伝播した明王は、中期密教の忿怒尊である。チベットは後期密教の影響を受けているため、姿形や性格、人気のほどは異なる。

姿形
軍荼利明王は一面八臂の姿で、手は2本の腕で三鈷印を結び、他の腕には武器や斧を持ち、顔は三ツ目でとぐろを巻く蛇を身に纏った姿で像形されることが多い。

真言
オン アミリティ ウン ハッタ(Aum Amrte Hum Phat)

邦訳すれば、「オーム (聖音)、甘露尊よ 浄めて下さい、砕いて下さい。」という意味になる。

2009年02月05日

餓狼伝説 WILD AMBITION

『餓狼伝説 WILD AMBITION』(がろうでんせつ ワイルドアンビション)は、1999年1月28日にSNKがハイパーネオジオ64で発売した、餓狼伝説シリーズ唯一の3D対戦格闘ゲーム。同年6月24日にはプレイステーション版が発売され、ハイパーネオジオ64から唯一の移植となった(2007年4月26日からゲームアーカイブスでプレイステーション・ポータブルおよびプレイステーション3向けに配信されている)。

前作に当たるリアルバウト餓狼伝説2の直接の続編ではなく、ストーリーは一旦リセットされ、作中の時代も初代餓狼伝説と同じになっている。キャラクターイラストはヒロアキが担当。
チモール ジョリティ ジルバ マンボ サーチガム ロズウ いととく ペクトル オフロ スマトラ ネック ショルダ バンジョ キャリア ハマユ タッグ ユーコン JAPAN いちにいさん 天徳 バキュ バンパイア コンヒ ナビミット ツツジ コート おおだま マングース ビーバー ホルダー しょく コチュカル パラペ フレー ビエンナ フリー ライス 王の行進 マイクラ レジス サンセ ドラマ オール ビショ きたひろ ナンプレ クロス マモモ モノク リュート

3Dにはなりラインはなくなったが、リアルバウト餓狼伝説などと基本的な操作性は変わらない。ライン移動に代わり、Dボタンで軸移動を行う。

また、3Dになったことで後ろ向き状態での攻撃が設定されており、投げ技も相手キャラの向きによって変わるものがある。

ヒートゲージ
今作でのパワーゲージで、スタンゲージも兼ねている。攻撃を当てる事で増加し、逆に食らう事で減少する。攻撃により空になると気絶。満タン状態で従来の潜在能力に相当する「オーバードライブパワー」かガード不能の「ヒートブロウ」を出せるが、出してしまうとゲージは空になる。

登場キャラクター
テリー・ボガード[Terry Bogard](声:橋本さとし)
ギースに殺されたジェフ・ボガードの養子。ジェフ譲りの喧嘩殺法を使う。
アンディ・ボガード[Andy Bogard](声:難波圭一)
テリーの弟。舞の祖父・不知火半蔵に骨法を学ぶ。2Pは髪を束ねている。
ジョー・ヒガシ[Joe Higashi](声:檜山修之)
ムエタイの日本人チャンプ。名前は「東丈」や「ジョー・東」とも表記される。
不知火舞[Mai Shiranui](声:曽木亜古弥)
不知火流忍術を駆使するくノ一。アンディを追って里を出る。本来は『餓狼伝説2』で初登場するキャラ。
キム・カッファン[Kim Kaphwan](声:橋本さとし)
正義を重んじ悪を許さないテコンドーの師範。テコンドーが最強の格闘技と自負する。本来は『餓狼伝説2』で初登場するキャラ。
ライデン[Raiden](声:ジョン・フラトン)
かつてのパートナーの裏切りに遭い、協会を追放されたレスラー。『餓狼伝説2』と『餓狼伝説SPECIAL』では善玉の「ビッグ・ベア」として登場したが、今作は初代のストーリーなのでギース配下の悪役マスクレスラーとして登場する。1Pの服装はビッグ・ベアのものがベースで、2Pの服装は初代ライデンのものがベースになっている。
千堂つぐみ[Tsugumi Sendo](声:出口佳代(現・津々見沙月))
レスラーを父に持つ女子高生。レスリングをやめる為に大会に優勝すると父に約束を取り付けるが、徐々に格闘にハマっていく。今作のオリジナルキャラ。
坂田冬次[Toji Sakata](声:菅原正志)
周防辰巳(ギースの師匠)のライバルであった人物。大南流合気柔術の使い手。今作のオリジナルキャラ。
山崎竜二[Ryuji Yamazaki](声:石井康嗣)
香港を根城にする闇のブローカー。今作でポケットに入れている手が右手になってしまっている(これ以前は、少なくともイラスト上では左手を入れていた)。本来は『餓狼伝説3』で初登場するキャラ。
ビリー・カーン[Billy Kane](声:山西惇)
ギースの部下である棒術使い。今作は使用する棒が初代とは違い、三節棍になっている。また1Pの服装は『リアルバウト餓狼伝説』シリーズのものがベースで、2Pの服装は同ゲームのポスターのスーツ姿がベースになっている。

隠しキャラクター
ギース・ハワード[Geese Howard](声:コング桑田)
サウスタウンを牛耳るコネクションのボス。古武術の使い手。今作では、スタートボタンを押しながら決定する事でスーツ姿にする事が出来る。
李香緋[Li Xiangfei](声:金月真美)
『リアルバウト餓狼伝説2』からのゲストキャラクター。ゲストキャラにつき、ストーリーはなし。

プレイステーション版追加キャラクター
ダック・キング[Duck King](声:コング桑田)
テリーをライバル視する、モヒカン頭のストリートダンサー兼ストリートファイター。初代や『餓狼伝説SPECIAL』とは違うスタイルの新しい衣装で登場。今作ではファイト中にPちゃんは出てこない。
Mr.カラテ[Mr. Karate](声:臼井雅基)
『龍虎の拳』の主人公、リョウ・サカザキの後の姿。天狗の面はつけていない。

2009年01月21日

ジャコバイト

ジャコバイト (Jacobite) とは、1688年イギリスで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン名 (Jacobus) である。

1688年、名誉革命とその体制はジェームズ2世を追放、ジェームズ2世の娘であるメアリとその夫ウィリアム(オランダ総督・オラニエ公ウィレム3世)をオランダから招聘、メアリ2世、ウィリアム3世として戴冠させた。それにともない、議会が王位の継承権を王位継承法によって規定しようとした。

しかし臣下である議会が王位継承に口をはさむという、当時としては革新的な制度に反感を持つ人は多かった。議会は、イングランドは国教会が主流のプロテスタント国であるがジェームズ2世はカトリックであること、さらに当時、非国教会信徒は政府官職につくことが禁じられていたことを理由にしたが、それをもって王の海外追放や議会による王位のコントロールを正当化することには疑問を持つ風潮もあったのである。

そうした疑問を持つ人々の間にも温度差はあったが、とくに熱心にジェームズ2世とその正嫡(男系子孫)をイングランド王に復位させるべきとして、ジェームズを支持した人たちをジャコバイトと呼ぶ。また、彼らのとった政治・軍事的行動はジャコバイト運動とよばれる。

ジャコバイトは、名誉革命以後半世紀にわたって、後述する国王暗殺未遂事件や反乱などを起こし、それらの運動は名誉革命体制に対する深刻な脅威となって、時に政権を動揺させた。しかし運動は次第に尻すぼみになっていき、ウォルポールらホイッグの政略もあって、ついに実を結ぶことはなかった。

ジャコバイトとそれを支援する勢力
前述のとおり、名誉革命後も王位は世襲によって守られるべきであり、議会が王位継承に関与すべきでないという考え方は依然根強かった。このイデオロギーはイングランド内外で一定の支持をあつめ、ジェームズ2世とその後裔が核となった。ジャコバイトはとくにスコットランドやフランスで強く、イングランドの外側からうかがう形が多かった。ここでは、イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてイギリス以外のジャコバイト、および支援した勢力・イデオロギーなどについて言及する。

イングランドのジャコバイト
イングランド内では、ジャコバイトが高度に組織化されることはあまりなかったものの、ウィリアム・メアリ両王よりジェームズ2世を依然支持する声もあった。特に保守派であったトーリーに多かったといわれるが、その中でも公然とジャコバイトであると言明する者から、板挟みになって悩む者、名誉革命を支持する者など多様な反応に分かれた。

これはトーリーは世襲君主政の原則を尊重しており、この意味では正嫡継承を主張するジャコバイトの立場に近かったためである。一方でトーリーは国教会維持の性格も併せ持っており、カトリック信者のジェームズを王に戴くことへの疑問もあった。しかし議会での反対勢力であるホイッグのウォルポールがおしすすめた「ジャコバイトは危険分子である」というキャンペーンや国際情勢から、公然とジャコバイトを名乗ることは次第に政治生命を危険にさらす行為となっていった。

またこれとは別に、その時々の体制に不満を持つ者や失地回復を望む者が、ホイッグ/トーリーに関わらず、亡命したステュアート家に希望を託すためにジャコバイトとなる例もあった。

スコットランド・アイルランドのジャコバイト
ジャコバイトの最大の支持基盤がスコットランド、特にハイランド(北部山岳地帯)地方であった。もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、スコットランド人はジェームズに同情的であった。特に1707年に批准されたイングランド・スコットランド合同法は、歴史的・宗教的対立を抑えこんで経済的利益を優先させたものであったが、すぐにはスコットランド側が期待していたほどの利益をもたらさず、イングランドに対する不満は高まっていた。1715年の反乱ではマー伯という指導者を得て、スコットランドのほとんどが反乱軍の手に落ちた。

一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。清教徒革命以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。

海外の支援
ジェームズ2世はカトリックであった。このためカトリック国でもあり、アウグスブルグ同盟戦争におけるイングランドの敵対国でもあったフランスは、ジャコバイトを積極的に支援した。特にルイ14世はこの支援に熱心であり、彼の在位中はジャコバイト運動が盛んであった。ルイ14世没後は、ジャコバイトやステュアート家に冷淡になったフランスに代わって、イタリア諸都市やスウェーデン、スペインなどが後ろ盾となった。
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

ジャコバイト運動の経緯
ジャコバイトはフランスなど海外勢力の後押しを受けて、イングランド内外で大小さまざまな政治的・軍事的行動を起こし、ステュアート朝の復活を企図した。特に1715年と1745年の反乱はそれぞれ「the 'Fifteen」「the 'Forty-Five」と呼ばれ、イングランドの人々の記憶に長く残る事件となった。後述するこうした反乱などに、17世紀末?18世紀前半の革命政府はすくなからず動揺した。しかし1745年の反乱以降はジャコバイトが組織化されることはほぼなくなり、名誉革命転覆の危機はひとまず去った。

ウィリアマイト戦争
この戦争は、ウィリアムとメアリの共同統治が決定してわずか2日後の1689年2月15日に起こった。ジェームズ2世が王位を取り戻そうと、亡命先のフランスからルイ14世に借りた軍を起こしたのである。ジェームズはアイルランドに上陸し、当地のジャコバイト勢力と結びついて、またたくうちにアイルランド全土を席巻した。これを受けて5月5日、イングランドは対仏同盟に参加し、フランスに宣戦布告する。ウィリアムは自ら軍を率い、1690年7月1日、アイルランドのダブリン近郊ボイン川でジェームズ軍を破った(ボイン川の戦い)。ジェームズはまだ余力を残していたにも関わらずフランスに逃げ帰り、アイルランド各地で起こっていた武力抵抗も1691年10月に鎮圧された。

これ以降、カトリック教徒は公職・法律職を禁じられ、土地所有や借地も厳しく制限され、アイルランドは少数のプロテスタント勢力によって支配されることとなった。また、これまでイギリスはヨーロッパ大陸の争いごとにあまり参加してこなかったが、この戦争からイギリスも大同盟戦争に巻き込まれ、「第2次百年戦争」ともよばれる対仏戦争を繰り返し、ヨーロッパの覇権争いに加わることになった。